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高野房太郎伝(5)

その後、房太郎はアメリカ各地を転々と移動し労働するかたわら、労働組合の勉強をし、1890年、商業学校へ入るため再びサンフランシスコへ戻った。
また同じ頃、城は日本人靴工たちと独立工場を開業したが、白人靴工たちから酷い迫害を受けていた。
迫害から身を守るため「労働問題」をテーマとした勉強会を始めた城の店は、いつしか在留日本人たちのサロン的役割を果たすようになり、新しい団体が生まれた。
勉強会から生まれ変わったその団体こそ「職工義友会」である。
その団体はまた「祖国日本の労働者に、労働組合の必要性を訴える」というビジョンも持ち合わせていた。
この職工義友会について記録した文献には次のように書かれている。
「米国桑港在留の城常太郎、沢田半之助、平野永太郎、高野房太郎及び他二、三の人相集まりて職工義友会を起す。その期する所は欧米諸国における労働問題の実相を研究して、他日わが日本における労働問題の解釈に備えんとするにあり」

また同時期、房太郎がサンフランシスコから読売新聞に寄稿した論文「日本における労働問題」の中に、次のような注目すべき房太郎の考えが述べられている。
1)労働組合が「友愛協会」=「共済組合」として相互救済活動を行うこと
2)「共同営業会社」=「生産協同組合と生活協同組合」としての活動もおこなうこと

彼が目指しているのは、労働組合が強大な勢力となり、資本家と対等の地位を占め、労働者全体の社会的地位を引き上げることにあるわけだが、それには時間がかかり、労働者は労働組合の意義をすぐには理解できないだろう。
したがって、労働組合に相互救済機能や協同組合的機能をもたせ、労働者に直接的利益を実感させなければならない、そう主張しているのである。
つまり、この提唱は、単に労働組合の勧めであるだけでなく、共済組合の勧めであり、協同組合の勧めでもあったのだ。

しかし困窮の中にあった房太郎は、1892年、商業学校を卒業するとサンフランシスコを離れ稼ぎの多い土地へ移っていく。
いかにすれば日本に労働組合を根付かせ、発展させることが出来るか、房太郎は残り少ないアメリカでの日々を、この問題を中心に、あれこれと思いを巡らせながら過ごしていた。

(つづく)

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